兄が結婚した。
八歳上の、威勢のいい子供のような兄。
結婚して家を出てからもうすぐ一年が経つけど、思っていたより寂しくない。
兄ちゃんとお義姉ちゃんのいる家には五分で着くし、相変わらず毎晩飼い犬の散歩には時間を合わせて二人で行くからだろう。
それに、兄ちゃんが食べた後のお皿を半ギレで洗うこともなくなったし、キングダムの漫画がなくなっただけの部屋は私のクローゼットになったし、一番風呂の争いをすることもなくなったし。
なかなか暮らしやすいのではないか。まあ、ビリーズブートキャンプを一人でやるのはちょいとしんどいけども。
相変わらず私の「兄」のままである。
その兄が「夫」になり、そしてだいたい十月十日が過ぎる頃には「父」になる。
私、二十三歳にして叔母さんになるんよ。不思議で堪らん。
でもね、ママのよく言う「親にとって子供は一生子供のまま」の言葉が、子を持つ前から理解できつつある。どれだけ年老いようが、誰の何になろうが、私にとって兄は兄のままであること。それ以上でも以下でもなく、ただ、ずっと私の唯一の兄なのよ。
ただ、思えば兄ちゃんのこれまでは、一般的に見ると「兄」と言うより「父」だね。
父ちゃんが先に逝き、母が残されてからの貴方は、立派な兄であり、父親だったね。
小学生の頃、毎日のように宿題を出してきた兄は、計算ドリルの上で居眠りする私をよく起こしに来てた。
中学生の頃、働く母の代わりに塾の面談に来て、バイトの面接に来た大学生と間違われてた。
高校生の頃、保護者参観にビシッとスーツをキメて来て、担任に進路の相談してた。
休日はどこかに連れていってくれたし、落ち込んだ時には半ば無理やり釣りに連行された。
大学生になった私が門限を破らないよう、毎日のように帰りの時間を聞いてきた。
母や私、実家のお店を守る為に、傷付き、カサブタが剥がれ落ち、その年月が繰り返し出来たその強い背中は、父のそれだった。
最近、運転する兄ちゃんに「そういえば」って平然を装ってさ、大切な人ができたって言ったじゃん。
聞いた兄ちゃんは明らかにそわそわしながら「そうか」とか「へぇ」とか、下手な相槌を繰り返して。隠しきれない動揺が、ギアをトントンする左手の指先に現れていてちょっと面白かった。
その反応、父親のやつじゃない?って。
この前なんてお義姉ちゃんと一緒にお菓子作ってたら、私たち二人がいる台所をじっと見つめててさ。
あらあら、自分の奥さんと妹が仲良くしてるのがそんなに微笑ましいかい、なんて思ってたんだよ。
隣で一緒に生地を混ぜるお義姉ちゃんが「絶対彼氏さんにあげることわかってて嫉妬してるんだね〜」って柔らかい声で言うの。
そうなんだ。いや、だからそれ父親のやつじゃんか。
確かに、私たち兄妹はあまりに近い。
近いからこそ、言葉の裏の感情だったり、行動の意図が手に取るようにわかる。
昔は心配だらけの気持ちを隠すように言っていた「お前の好きに生きればいいんじゃん」が、最近本心に変わりつつあるのも、わかる。
それはそうでしょう。
私のおしめを変え、転んでは泣く私を笑って見ていた貴方が、数々の節目を一番近くで見守るようになり、手の届く距離でも聞けないことも、言えないこともありながら、ただ祈るように私の成長を感じてきた貴方だからこそ言える「好きに生きろ」があるんです。
私も成長し、兄の手を掴まずとも踏ん張って歩けるようになりました。
そして、また貴方がこれから何十年と成長を見つめる「我が子」が、もうすぐ生まれます。本当の父になり、家庭を持ち、守るものが増える。
三十路を迎えた誕生日、唸りながらケーキを頬張っていたのを笑いながら見ていたけど、私もいつかは同じように老いて、同じように守りたいと思う家庭を持つ。
こうやって年老いていくんだよな、たぶん。
「結婚祝い、新居に置くイイ感じの植物でも買ってよ」
結婚して早々、犬を連れて歩く兄が言っていた。謎のマグネットと日焼けした学級だよりが貼られた冷蔵庫のある実家、植物を置く場所も雰囲気もなかったもんね。
改まってプレゼントを渡すのが、なんだか小っ恥ずかしくて何も渡せていなかった。
大きな箱に手作りのチョコを詰めこんで渡していた2月。「まあまあだな」なんて言いつつも、部屋に似合わない可愛い箱が捨てられずに溜まっていくその様子は、妹からのくすぐったい愛を受け取る兄の不器用さが滲んでいました。
そんなバレンタインが愛を贈る日だったのなら、ホワイトデーは贈られた愛への「ありがとさん」。
来年のホワイトデーにはもう、本当の我が子が居るね。
私ももう大人になった。
守るべき「我が子」は私じゃなく、お腹の中にいるあの子になった。
それでも私は妹として、貴方は兄として、これまで通りバカし合う兄妹のままなんよ。
私はもう、大丈夫。二十二歳の私は、きっとしなやかで、強い。
兄ちゃんだってもう、大きくて強い父親の背中を持っているから、素敵なお父さんになるよ、きっと。
「妹」としても、まるで「子」としても愛され続けてきた二十二年間。
「子」としてのありがとう、は今年で終わり。そんな最初で最後のホワイトデーにピンクのチューリップを贈ります。
花言葉は「誠実な愛」だそうです。
ありがとさん、兄ちゃん。こんな妹を、これからもよろしく。
編:小嶋らんだ悠香